2014年

5月

21日

はじめまして

とある先輩牧師の話。

「先生のクリスマス説教はいつも新鮮」と言われたそう。「そうか、そうか」と気を良くしていたら、「自分は、先生が前に何を語っていたか、クリスマスになる度に忘れるから」と、言われたんだとか。

 

 そんな話を思い出すのは、今度の礼拝の聖書箇所が、清水で語る四度目の聖書箇所だから。もう、この箇所の説教に入れられる例話は使い果たした。それだけならまだいい。このままだと、構成も方向も、たぶん、過去のどれかと同じになる。そんな時、冒頭の話を思い出し、「大丈夫、多分、みんな忘れている」と、すがるような思いで(違う意味では、へこみつつ)期待してしまう。

 

 かつて、幼稚園の教諭をしていた信徒のKさんが、こんなことを言っていた。「幼稚園で歌を教えていると、『この行事には、この歌しかないな』という歌があるのね。たとえば七夕の歌。園の先生の中には、『もう、何度か教えている歌』という、気のゆるみが出て、教え方がいいかげんになる事があるの。そんな時、『この歌を、はじめて歌う子もいるんですよ。だから、わたしたちも、はじめて教えるつもりでいましょうね』と伝えるのよ」。

 

 ぎゃふん、である。どちらかというと、気も体もゆるみっぱなしの身としては、耳が痛い。新しい気持ちで、聖書に出会う。新しい気持ちで、聖書を読む。新しい気持ちで、聖書の言葉を語る。新しい気持ちで、聖書を分かち合う。ああ、その大切さを、新しく胸に刻みたい。今週も、新しい気持ちで聖書を読む格闘の週が、半ばを過ぎようとしている。