う・ら・め・し・や

 市内を走る小さな電車に乗った時のことだ。父親らしき人と2人の男の子が電車に乗って来た。2人の男の子は、目に映るもの、耳に聞こえるものが、どれも面白いらしく、笑い転げて、車両内の椅子ではしゃいでいた。空いた車内では、その光景は、のどかで微笑ましかった。

 そのうち、2人のうちのお兄ちゃんらしき子が、笑いながら「古典的な怪談話」を始めた。何となく耳を澄ませて聞いていた私。話が佳境に入り、「さあ、そろそろ『う~ら~め~し~や~』って来るな」という所で、お兄ちゃんらしき子は、自信満々に言った。「め~ん~そ~う~れ~」。  

 その瞬間、私も、車両にいた大人たちも、「はっ?!」となって、一斉にそのお兄ちゃんを見つめた。それまで、2人がどれだけ転げまわっても、どれだけ大きな笑い声をあげても、とりたてて注意をしなかった父親らしき人まで、すかさず「そこ、『うらめしや』だからな!」と注意した。「あ、そこは注意するんだ(笑)」と思ったのは私だけではなかったらしく、そのあと何人かが、笑いをこらえて3人を見つめていた。死しても尚、化けても尚、訴えたい恨み。それが、思いもかけずに歓迎の言葉になってしまったなんて!幽霊、痛恨のミスである。今、思い出しても、ちょっと可笑しい話だ。  

 数ヶ月前、「やられたら、やり返す。倍返しだ!」という決め台詞のあるテレビドラマが放映されていた。その台詞が人気を博し、回を追うごとに、「10倍返しだ!」「100倍返しだ!」と大仰になっていった。人気が出たのも頷ける。やられたら、やられたままでは終わりたくないのは、人の常ではないのか。

 私の中に「やられたら、やり返せ」という本音がある。だから、「憎しみの訴えが、歓迎の言葉になった怪談話」が、とても可笑しく、そして、どこか切なかった。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と語ったキリストの言葉を聖書は記す。実に主は、そのように生きた。私たちは簡単に、その言葉を引用して、赦しや愛を他者に強制する事は出来ない。ただ、主の語った言葉の重さと意味を、折に触れて想起することが出来る。自らの愛の限界に気づかされる中で、神の愛の広さ、高さ、深さについて、ただただ思い知らされるのだ。