2017年10月8日

マタイ 6:19-34「二兎を追うと、どうなる!

  

 「二兎を追う者は一兎をも得ず」といいます。これはローマのことわざで、一つの穴に逃げ込んだ二匹のウサギを同時に二匹捕まえようとして、二匹とも逃がしてしまったことからできたことわざだと解説されていました。目標は一つにしぼりなさいということでしょうか。

 マタイ6:19-24は、「神と富」について、イエスさまの教えが書かれています。まず、「地上に富を積んではならない」といいます。それは、地上では、虫が食い、さび、盗まれたりするからだと。そうではなく、富は天に積みなさい、そうすれば、安心だからと。そして、つけ足したように、「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」といいます。
 次に、目が澄んでいれば、全身も明るくなると、澄んだ目に注目します。
 終わりに、「二人の主人に仕えることができないように、神と富とに仕えることはできない」と教えています。

 

 当時、神の祝福は、長寿、子孫の多いこと、財産に表されるとされていました。ヨブの最後を読むと、そのことが分かります。そうしてみますと、富を積むということは、決して悪いことではなく、善いことをしているからこそと受け止められていました。
 イエスさまは、そのような考えそのものを否定したのでしょうか。ここで、原文の意味は、「あなたの富」とは「あなたのための富」となっています。ですから、自分のために富を積むこと、目的が自分のために、富を増やそうとすることなのです。そこに問題であります。善いことをした結果として、富が増えていることが願われているのでしょう。

 

 「目が澄む」とあります。目が「体のともし火」とありますように、目は人においての中心的なものをさします。ですから、目とは魂、さらにいうと、心ということです。ですので、「心が澄む」ということです。「澄んだ心」が、神の思いを知ることができるはずということです。
 澄んだ心、自己中心ではなく、利他的な心、神の愛に生きようとする心です。まさに、イエスさまにならって生きることです。

 

 目標を一つにしぼること、すなわち神を求めることで、必要な富はついてくることを、イエスさまは、その歩みで示してくださいました。
私たちは、何を目標に歩んでいるのでしょうか、考えたいものです。

 

 

2017年10月1日

歴代誌上 21:18-26「待ちぼうけ!」

 

 童謡「待ちぼうけ」は北原白秋の作詞です。働き者の農夫が、たまたま木の切り株に転んだウサギを捕まえました。それからは働くことをやめ、ウサギを待ち続けました。ついに、畑は荒れ、なにも収穫できませんでした。「労せずして、得ることなし」なのでしょう。

 

 ダビデは王となり、絶対的な権力を手にしました。兵士の人数を知りたいという誘惑にかられたのでしょう、将軍ヨアブに人口調査を命じました。ヨアブもいさめましたが、おごり高ぶっていたダビデは素直に従いませんでした。その結果、神からの審き、罰がくだりました。
 3年間の飢饉か、3か月の敵襲か、3日間の疫病か、一つを選びなさいと迫れます。疫病を受け入れ、そのため7万人の人が倒れました。さすがに、ダビデは神に悔い改め、民を苦しめることをやめ、自分と自分の家の者に災いを与えるよう願います。神は、ダビデの執り成しをよしとして、オルナンの麦打ち場に祭壇を築くことを命じます。

 ダビデは、その命令に従い、オルナンの麦打ち場を求めます。ところが、オルナンはその土地と祭壇に必要なもの一切を無償でダビデに譲ると申し出ます。王ダビデと住民オルナンとの関係から、そうすることが当然だったのです。しかし、ダビデは、そのオルナンの土地を十分な代価として決して安くはない値段で買い、祭壇,献げ物のすべてを自分で用意しました。
 すべての備えをしたうえで、ダビデは悔い改めの祈りを献げました。神はダビデの祈りを受け入れ、赦しを与え、そのしるしとして献げものを焼きつくしました。

 

 神からの赦しは、ダビデができる最大限の誠意をもって行うことで与えられました。赦されることは、大きな喜びです。それだけではなく、赦しには新しい希望が伴います。希望は目標となり、生きる力となります。
 このオルナンの土地こそ、神殿を建てるところとなります。神の臨在が示されるにふさわしいところであることが、後に明らかになります。

 

 私たちも、困難の中にあるとき、その意味が分からす、苦しみ、ときに空しささえ感じます。しかし、十分な代価が支払われるとき、必ず後から意味が明らかになります。神のなされることは、いつもそうなのです。だからこそ、自分のできることに誠意をつくして行いたいものです。

 

 

2017年9月24日

詩編 119:105-112「浦島太郎の玉手箱!」

 

「浦島太郎」も昔話としてよく知られています。助けた亀に連れられて竜宮城に行き、楽しい時を過ごし、帰ってみると、世界はすっかり変わっていました。乙姫様からいただいた、開けてはいけない玉手箱、意を決して、開ける。中から煙が出る、とたんに白髪のお爺さんになってしまった。この話は、一体何を教えているのでしょうか。考えると、不思議な話です。

この詩編119編は、詩編150編あるうちで最も長い詩です。それだけではなく、この詩はアルファベットによる詩であるとあります。各段落の各行の最初の単語の頭文字がその段落の文字で始まっているということです。ですから、極めて形の整った詩です。とかく、形にこだわると、中身がおろそかになりがちです。
しかし、これほど長い詩でありながら、その主張は一貫しています。1節から3節で、それが語られています。「主の律法を歩む者は幸いです」ということにつきます。しかし、それは、単なる教訓として語られているのではなく、この詩人の苦難の人生経験から導き出された結論なのです。

 

讃美歌作詞家のファニー・クロスビーは生後6週間目、医師の治療ミスで失明してしまいます。彼女は祖母から聖書を読んでもらい、ミルトンなど失明者でよい働きをした人の話を聞き、育ちます。しかし、子どもの頃、友だちから「役立たず」といわれ、傷ついたりもしました。盲人学校を卒業し、教師となり、38歳で結婚し、子どもを授かりましたが、病死してしまいます。数々の試練に会い、讃美歌を作ることもできなくなります。45歳になったとき、勧められ、讃美歌の作詞を再開します。召されたのは95歳です。その間に、作られた讃美歌は9,000曲を超えているといわれています。彼女の讃美歌の源泉は、祖母が読んでくれた聖書の言葉であったといいます。治療ミスをした医師が自責の念で苦しんでいることを知り、「あなたにとっては失敗でも、神に失敗はありません。神はすべてを働かせて私たちに益としてくださいます」と伝えることができました。

 

この詩人も、自分の人生を振り返ったとき、試練に会いながらも、聖書の御言葉が自分を導き、支えていたことに気づきました。まさに、御言葉は足元を照らす灯であり、歩む道に光となっていたことを知ったのです。
私たちも、同じことをそれぞれの人生で味わっているのではないでしょうか。御言葉の力は、御言葉に従ったとき、知ることができるからです。

 

 

2017年9月17

ルカ 13:6-9「桃栗三年柿八年、ゆずの大馬鹿十八年!」

 

 「桃栗三年柿八年、ゆずの大馬鹿十八年」、ものが、それなりに一人前になるにはそれ相応の時間がかかるということのようです。畑作では一年で収穫を迎えますが、果樹栽培には、実をつけるまでに相当な年数がかかるのです。それ以降も、肥料、剪定、受粉、摘果(てきか)と手のかかることが続きます。

 

 今日の聖書の話、どうして、いちじくの木が1本だけ、ブドウ園に植えられていたのでしょうか。わかりません。
 沢山実をつければ、少しは役だったかもしれませんが、三年以上も、実をつけなかったというのですから、ブドウ園の主人が「役立たずめ、切ってしまえ」というのも、分かる気がします。
 ところが、このブドウ園の園丁は「肥料をやったりして、世話をしますので、待ってください。実がなるかもしてません、そうでなければ切ってください」と頼みました。育てている園丁でさえ、実をつけないいちじくの木は切られても仕方がないと考えていました。

 

 この話は、たとえ話ですから、このいちじくとは私たちのこと、そして園丁とはイエスさまのことでしょう。ということは、私たちが実をつけなければ、切り倒されてしまうということです。「実をつける」とは結果を出すということです。「えぇー、イエスさまも、結局は、結果で判断するのか。結果が出せなかったら、だめなのか」と思ってしまいませんか。

 

 ここで、「そうすれば、来年は実がなるかもしれません」とありますが、フランシスコ会聖書では「そうすれば、来年は実を結ぶでしょう」となっています。そして、「もしそれでもだめなら、切り倒してください」と続きます。「切り倒す」のは、園丁がすることではなく、ブドウ園の主人がすることだといっています。
 そうなのです、園丁のイエスさまは、あきらめていません、それどころか、実を結ぶことを信じています。イエスさまは、「このいちじくの木が実をつけるまで、世話をし続ける」と約束してくださっているということです。

 

 そのように、私たちに関わり続けてくださり、実をつけるのをあきらめることなく、忍耐し、待っていてくださるイエスさまの愛に、気づきたいものです。愛されていることに気づくとき、私たちは変わります。愛されているからこそ、愛することのできる者へと変えられます。