2017年2月12日

イザヤ 45:7 「なぜ、災いに会わなければならないのか

  

 「星見の井戸」というのが鎌倉にあるそうです。その井戸をのぞくと、昼間でも星を見ることができる。井戸は深く、太陽の光が底までとどかず、水にうつった星が光って見えるというのです。

この聖書の箇所に、「造り」「創造する」「もたらす」という言葉がでてきます。これらは、すべて「つくる」という意味です。日本語でも「つくる」を「作る」「造る」「創る」と書くことができ、言葉が違うと、その意味するところが微妙に違ってきます。ヘブル語も、そうなのです。

 

 「創造する」は、神が主語のときだけしか使えません。ですから、神だけができること、神が行っていることということです。
「造り」は、神だけではなく、人も主語となれます。たしかに、「光」は私たち人間が工夫し、色々な光をつくりだしています。ですが、「闇」は、私たちにはつくりだすことはできません。せいぜい光を遮断することで闇とし、闇そのものをつくっているわけではありません。

 

 おなじように、「災い」も神がつくっているというのです。「災い」は「苦難」「試練」とも解釈できます。
「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ローマ5:3)とあります。
そして、「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリントⅠ10:13)とあり、苦難や試練は、神が私たちのために与えたものであることが分かります。

 

 そのように、災いが私たちのためにつくられ、与えられたものであることが分かれば、不安になったり、恐れることはありません。しかし、苦痛がなくなる訳ではありません。痛み、辛さは続きます。
だからこそ、イエスさまが十字架の上で、父なる神に叫ばれたように、私たちも苦しいとき、辛いとき、叫んでいいということです。その私たちの叫びに答え、支え、逃れる道を与えてくださるのです。
なぜ、災いに会わなければならないのでしょう。苦難と試練を乗り越えたとき、自分の力で生きていた自分に死に、神による新しい命に生きる自分に出会うことができるからです。


 


      

2017年1月22日

マタイ 20:1-16「あきらめない!」

 
 イソップ寓話「北風と太陽」、よく知られています。力まかせに上着を奪おうとして、失敗した北風、ゆっくりと時間をかけ、暖かい日差しを注ぎ、ついには旅人は自分から上着を脱いでしまった。あわてず、あせらず、みごとに成功した太陽。

 

今日の聖書の話、朝から働いていた者が、「夕方きて、1時間も働かず、同じ賃金をもらえるなんて、不当だ、許せない」と叫ぶのは、もっともなこと、当然なはずです。
ところが、この主人は「あなたと1デナリオンの約束をしたはず、ちゃんと約束は守っている。自分のものを自分の好きなようにしただけだ。それとも、わたしの気前よさがねたましいのか」というのです。
どうして、そのようなことがいえるのでしょうか。

 

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)。自分は正しいと思い、イエスさまを必要としない人にではなく、自分の力のなさを知って、イエスさまに助けを求める人に、イエスさまは手を差し伸べるというのです。

 

夜明けにやとわれた人たちは、朝から働き始め、日中の暑さの中も働き、夕方まで目いっぱい働き、当然、十分な報酬をもらうことができると、自分の力を誇ることができました。彼らは自分の訴えを正しいと思いました。

ところが、夕方にやとわれた者は、「誰もやとってくれませんでした」というしかないような人たちでした。やとうにはふさわしくないと思われていることを知っていました。ですから、自分を必要とする人がいたなら、その人のために精いっぱい働こうという思いを持っていました。だから、あきらめずに、夕方になっても待っていました。
彼らは、自分の力を誇ることなく、力のなさを認めつつも、だからこそ、自分のした仕事を誇ることなく、ただ人のために、自分にできることで働く者たちでした。この主人はかれらそのまま受け入れました。あきらめることなく、待ち続けた彼らをほめたのです。

 

私たちは誰のために生きているのでしょうか。人のためにできることをしようと、あきらめず、待ち望む者でありたいものです。
イエスさまもあきらめず、私たちを待ち続けてくださっているからです。


 

 

 

2017年1月8日

創世記6:9-14「ノアの箱舟物語」

 

 映画「沈黙」の宣伝広告が朝日新聞の一頁全面をつかって掲載されていました。この映画は「神の沈黙」がテーマなのでしょう。それとは対照的に、「神の語りかけ」によって動かされたのが、アッシジのフランチェスコでした。「わたしの家を建て直しなさい」と、神の声を聴いたと信じたフランチェスコは聖ダミアノ教会の修理再建にとりかかります。一つひとつ石を積みあげていきました。気の遠くなる作業でした。

 

 ノアも、神の声にうながされ、箱舟を造り始めました。ノア一人で始めたことでしょう。誰ひとり、ノアの話を信じなかったことでしょう。しかし、ノアは神の約束を信じ、家族のため、こつこつと木を切り出し、積みあげていきました。そして、箱舟ができあがると、神からの声があり、家族と動物たちを連れて、箱舟に入るようにと。
ノアとその家族、そして動物たちが箱舟に入ると、洪水が起こり、水が地上をおおい、すべての生き物が滅びてしまいました。

 

 フランチェスコは、神の願いは会堂を建て直すことと信じ、作業しましたが、フランチェスコの働きは、さらに大きな働きのためでした。当時の信仰を再生することこそ、フランチェスコに期待されたことでした。神にのみ信頼する歩み、清貧を貫く修道院を設立します。「わたしの家を建て直しなさい」とは、そのことだったのでした。

 

 ノアも、箱舟を造り、家族を救うことができました。しかし、それは家族を救うことだけでなく、そのまた子孫へとつなげていくためだったのです。ノアとその家族が救われたからこそ、今の私たちは救われたのです。
たった一人で始められたことが、多くの人々をまきこみ、多くの人々を救うことになりました。ですから、私たちも、ただひとりで始めているかもしれませんが、そのことが、私たちにつながる人たちを救うことへと広がっていきます。

 

 「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう」(コヘレトの言葉11:1)
私たちの働きはパンを水に浮かべるようなことにしか見えないかもしれません。しかし、神の言葉です、だから信頼していいのです。

 

 

 

 

2017年1月1

マルコ4:35-41「全員で渡ろう!」

 

 アッシジのフランチェスコは「平和の祈り」で知られていますが、小鳥たちにお話ししたり、狼を叱ったりしたともいわれています。映画「サン・ブラザー シスター・ムーン」で、小鳥の声で病から立ちなおり、小鳥を捕まえようと、高い屋根の上を歩く姿が印象的でした。

 

 今日の箇所では、イエスさまが湖の水と風を叱り、しずめたと書かれています。病を癒すイエスさまに驚かなかった弟子たちも、風や荒れ狂う波まで、意のままにしてしまうイエスさまを理解することができません。「この方はどなただろう」とつぶやくしまつでした。
そのような弟子たちに、イエスさまは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」といっています。

 

 イエスさまにいわれるままに、向こう岸に渡るために舟を出しました。弟子たちは、まさか、こんなひどい嵐に会うなどとは考えてもいなかったのでした。イエスさまが一緒にいるのに、なぜ、このような試練にあったのでしょうか。

 

 私たちは、幼いころから試験に追い立てられています。何ができる、何ができないと、試験結果で知らされます。試練も形を変えた試験です、私たち自身を知ることになります。
弟子たちはイエスさまの言葉によって自分たちの姿を知りました。それだけではありません、イエスさまという方を「理解できない方」として出会いました。さらに、この経験を一緒に味わった仲間を得たということです。弟子たちは自分の力の限界を知り、イエスさまと共に、仲間全員が力を合わせ、向こう岸に渡ったとき、その経験が尊いものとなりました。試練が弟子たちを育てていきました。

 

 新しい年が始まりました。教会にとっても、それぞれのご家庭にとっても、またお一人ひとりにとっても、今年も新しい出来事や試練に会うことでしょう。しかし、私たちは一人ではないこと、家族や仲間がいること、なによりも、イエスさまがいてくださることを知ることができます。「全員で渡ろう」、一人ももれることがないことを願う、なんと慰めにあふれる、心やさしい言葉でしょうか。