2017年4月16

ルカ 15:11-24「帰るところ」

 

 落語「船徳(ふなとく)」「唐茄子屋政談(とうなすやせいだん)」に登場する若旦那は「金の切れ目が縁の切れ目」を経験し、自分の魅力ではなく、金の力が人をひきつけていたことを知って、親のありがたさに目が覚めます。

 

 今日の聖書の話も似ています。父親から財産を分けてもらい、遠くの国にいき、金と自分の能力で生きていけると思ったのです。ところが、都会の魅力に飲み込まれ、放蕩三昧(ほうとうざんまい)のあげく、すっかり金を使い切ってしまいました。そして、人は、金が引き寄せていただけであることを知りました。ユダヤの人が汚れた動物として嫌う豚の世話をさせられ、食事さえ与えられないという悲惨な生活に突き落とされてしまいました。そのどん底で、どれだけ自分が惨めな姿になっていたかということに、ようやく目が覚めました。

 

 「放蕩」とは「神の助けを拒絶する」ということです。「遠くの国に行く」とは「親子の関係を断つ」ということです。自分の力だけで成功をつかみとるのだという意気込みは素晴らしいことかもしれません。だからこそ、失敗した今、神に対する罪、父親の信頼を裏切った過ちを償わなければならないと感じたのは当然でした。謝ったうえで、雇い人の一人にしてほしいとお願いしようと決心し、故郷へ帰ることにしました。
 不幸な目に会いたいなどとは、誰も思いません。しかし、思いもかけず、不幸に襲われます。ところが、その徹底的な不幸に出合ったからこそ、自分の本当の姿を知ることになります。そうでなければ、この弟息子は父親のところに帰ることもなかったでしょう。不幸な出来事と思われることが、実は幸いな人生への門出(かどで)となるのです。ですから、人生は決してあきらめてはいけないのです。もう駄目だというところから、神の出来事は始まるからです。

 

 まさに、そのことが起こりました。ボロボロになって帰ってきた息子を、父親の方から見つけ、そして、駆けつけてきてくれたのです。一家の主人は決して走ってはいけないことになっていました。息子に何もいわせず、晴れ着を着せ、指輪をはめさせ、靴をはかせ、祝宴を開くよう、召使たちに命じました。父親のしたことは全く常識を逸脱していました。子を溺愛(できあい)する愚かな父親の姿にしか見えません。

 

 若旦那の父親が世間の目を気にしたのに対し、この父親は神に目を向けていました。神の愛は底抜けの愛、徹底的な信頼です。人が人として生きていくためでした。その神の愛に答えることで、私たちは自分を生きることができます。

 

 

2017年4月9日

コリント2 11:16-30「強さは人を断ち、弱さは人をつなぐ!

  

 「子犬セール」と書かれたペットショップで、男の子と店員の会話。「子犬っていくらするの」「30ドルくらいかな」「2ドルしかないけれど見せてくれる」
 店員が口笛を吹くと、店の奥から子犬たちが走ってきました。ところが1匹、足を引きずりながら、一生懸命ついてくる子犬がいました。「あの子犬どうしたの」「生まれつき、足が悪いんだ」「ぼく、この子犬がいい」「ほしければ、ただであげよう。どうせ売れないからね」「ただでなんかいらない。ちゃんとお金を払うよ。この犬のどこがほかの犬と違うというの」「この犬はほかの犬のように走ったり、ジャンプしたりできないよ。だから君と一緒に遊べないんだよ」
 それを聞くと、その子はズボンのすそをあげました。すると、ねじれたように曲がった左足に金属製のギブスがはめられていました。男の子は店員を見あげて「きっと、この子犬は自分の気持ちを分かってくれる友だちがほしいと思うんだ」

 

 コリント第2の手紙は「涙の手紙」といわれています。パウロが涙ながらに書いた手紙だからです。この箇所にも、パウロの気持ちが現れています。
 コリント教会が使徒という権威を振りかざすニセ使徒たちによって壊されてしまったことを知って、パウロは怒りました。権威という力が教会の人々の信仰をくじき、弱い人を受け入れる愛さえも奪ってしまいました。
 パウロは、コリント教会の人々が力の前にあまりに弱いことを知って、力に頼ることの愚かしさを語ります。なぜなら、そのニセ使徒とくらべて、パウロが劣ることなどなく、その力なら彼らが誇る以上のものを持っていたからでした。
 それで、パウロが経験した苦難を次々にあげていますが、それはパウロ自身を誇るためではなく、それをとおして自分の弱さを知ることができたということでした。そして、その弱さこそが、自分を新しくつくり変えたといいます。
 「だれかが弱っているのに、わたしが弱らないでいられようか。だれかがつまずいて、わたしの心が燃やされないだろうか」といいます。パウロは弱さを知りつつ、苦しみに耐えることができました。それは自分の力ではなく、神からの慰めによったこと、そして、多くの人の共感という支えがあったからだといいます。だから、パウロはそのような苦しみにある人々を慰め、支えるものとなることができると語ります。

 

 強さが振りかざされるとき、人は弱くされ、持っている力さえ生かせず、人と人との関係が断たれてしまいます。しかし、弱さが働くとき、人と人とをつなぎあわせることができます。なぜなら、弱さを知っている人は、神と人とに謙虚に向かいあい、持てる力を生かすことができるからです。

 

 

2017年4月2日

マタイ 5:1-10 「全員で渡ろう!」

 
 オグ・マンディーノの『十二番目の天使』。少年野球の話です。チームのメンバーには上手な子から選ばれますが、どのチームからも声がかからなかった子ティモシーを引き取ります。何をやってもダメ、しかし、応援でみんなを励まします。「絶対、絶対、絶対、絶対あきらめない!」「毎日、毎日、よくなっている!」と。その弱小チームが優勝します。ティモシーという貧乏くじを引いたはずだったのに、彼がチーム全員を天使にしてしまったのでした。

 

今日の箇所は、「山上の説教」として知られています。イエスさまは弟子たちと集まってきた人々に語りました。「幸いだなあ!」と話しはじめました。続いて、「心の貧しい人たちよ」と。聞いた人たちはキョトンとしたことでしょう。「貧しい人」と「幸い」とが結びつかないからです。

 

「心の貧しい人」の「心」とは、「嬉しい」「悲しい」という感情や気持ちが生まれる心のことではなく、「霊」といわれる神を知ろうとする心、神を求める心のことです。「貧しい人」とは、人から施しを受けなければ生きていけない人のこと、「物乞(ものご)い」のことです。
ですから、「心の貧しい人」とは、「霊の心が空っぽで、飢えている人」のことです。

 

多くの人々が、安心は物、お金、または能力、体力、権力などの力を得ることだと信じ、努力しています。ところが、それらを自分の手に入れることができる人は限られています。そして、それらを手に入れることができなかったり、また手に入れても、失ってしまったりした人たちが、イエスさまの周りに集まっていました。人に失望し、神にしか頼れない人たちでした。そのような人たちに向かって、イエスさまは「あなたたちは幸いです!」と語りかけたのです。

しかし、そのような失われてしまうものに頼ることをやめ、神に頼る生き方をしようとする者を、多くの人々は受け入れてくれません、追い出そうとします。「十二番目の天使」のティモシーと同じです。しかし、最後に、ティモシーがチームを勝利に導いたように、「心の貧しい人」がそれぞれのところで、希望を掲げ、愛を証し、幸いへと導きます。


 私たちも、それぞれの家族、教会で「心の貧しい人」として歩みましょう。そのとき、イエスさまの「幸いだな!あなたがたは」との声を聞くでしょう。
 

 

2017年3月26日

フィリピ 3:5-11 「弱くて、好い!」

 

 「こぶとり爺(じい)さん」。優しい爺さんと意地悪な爺さん、ふたりとも頬(ほお)にこぶがありました。ある日、優しい爺さんは鬼たちと楽しく踊り、「明日も来い、こぶを預かっておく」と、こぶをとられてしまいます。それを聞いて、意地悪な爺さんも鬼たちのところに行きましたが、怖くて踊れません。鬼は怒って、「こぶは返す、二度と来るな」と、こぶをつけられてしまいました。

 

 パウロは誇っていました。八日目に割礼を受けたこと、戒律を守る家に生まれたこと、イスラエルの由緒(ゆいしょ)ある部族、ベニヤミン族の出身、両親が生粋(きっすい)のヘブライ人であること、そして、自分がファリサイ派の信仰であること、クリスチャンたちを徹底的に迫害してきたこと、律法を守ることにおいては誰にも非難されることはなかったこと、と。

 

 強くなることだけが、パウロの願いでした。パウロには「こぶとり爺さん」のこぶのようなものがあったようなのです。それをなんとか克服しようと、あらゆる努力をしていたのです。それは、弱さを見せまいとする強がりであり、本当の強さではなかったのです。
ところが、そのパウロがダマスコという町に向かう途中で、突然、強い光にパウロは倒れてしまいます。幻の中で、十字架に架かっているイエスさまを見るのです。それはなにもできず弱さに徹しきっているイエスさまの姿でした。神の愛と真実にご自分を完全にゆだねきった信仰を見たのです。パウロが求めていた生き方が、ここに示されました。

 

 パウロに、使命が与えられました。主イエスを証しし、人々に伝えることでした。しかし、自分が持っている弱さを恥じていました。ところが、神は、「その弱さの中にこそ神の恵みが現れている」というのでした。それは、あの幻の中で示された主イエスの十字架の上で弱さに徹している姿にならって生きなさいということでした。弱さのまま生きることが、そのまま神の恵みを証ししていることになっているということなのです。
パウロは弱いまま生きることで、その使命を果たしました。

私たちも、それぞれに弱さを抱えていることでしょう。その弱さがなくなれば、どれほどか楽に生きることができることかと思っています。しかし、弱さを引き受け、受け入れることができるならば、きっと変わります。

 できることをし、できないことは委ねていくとき、きっと、そこに神の恵みを見ることができるようになることでしょう。