2017年12月31

ヨハネ 19:28-30「笠地蔵!」

 

 大晦日(おおみそか)、正月の支度をしたいと、作った笠を売りに町に出ましたが、一つも売れず、気落ちしながら、雪道を帰っていきました。村のはずれの地蔵が雪をかぶっていました。雪を払い、売れなかった笠を地蔵の頭にかぶせてあげました。ひとつ足りなかったので、手ぬぐいをかぶせてあげました。夜中、おもてでにぎやかな声が、外に出ると、家の前にお餅と米俵が積まれていました。去っていく後ろ姿は皆笠をかぶり、最後のひとは手ぬぐいをかぶっていました。心やさしい爺婆の「笠地蔵」の話です。

 

 十字架に架かられたイエスさまは、母マリアを弟子のヨハネに託し、すべての業を終えられた。そして、「渇く」といわれた。すると、人々がブドウ酒を含ませた海綿をヒソプに付け、イエスさまの口元にさし出した。イエスさまはそれを受け、「成し遂げられた」すなわち「完了した」といわれ、息を引き取られた。
 渇くとは、死を意味していました。ですから、「渇く」といったとき、死を受け入れたということです。それは、まさにすべてをやり遂げ、自分の使命を全うしたことを宣言したのです。

 

 イエスさまの使命とは、神の国が来たことを宣言し、神そのものを指し示すことでした。しかし、最も大切な使命は、神と人との関係の回復にありました。そのため、私たち人間の身代金として、ご自分の命を献げられるのです。そして、今、「渇く」と宣告し、それを執行されるのでした。

 

 人々は、イエスさまの降誕を、救い主の到来としてしか受けとめませんでした。イエスさまの生涯が、この十字架に架かって、ご自身の命を献げることであったとは、誰も思いもしませんでした。
 自分のためではなく、相手のためであり、見返りを求めない行為であるならば、それは純粋で、真実な愛であることがわかります。神の愛が真実の愛であることを、イエスさまは十字架で表してくださったのです。
 最後の最期まで、貫いてくださったのです。そうまでしなければ、私たちには神の愛が分からなかったのです。

 

 クリスマスの出来事の結末は、ここにあったのです。最も大切な贈り物として、私たちに与えられました。それは、イエス・キリストという愛と真実の贈り物です。

 

 

 

2017年12月24日

ルカ 2:1-20「伝言ゲーム!

 

「伝言ゲーム」、列の先頭の人に、ある言葉(メッセージ)を伝え、その人から順に後ろの人に伝えていき、最後の人にどれだけ正しく伝わっていたかを競うゲームです。その言葉にこめられた思いまで伝えようとするなら、かなり難しいものになりそうです。

 

赤子のイエスさまの誕生の知らせを最初に伝えられたのは、野原に野宿していた羊飼いたちでした。夜の闇に、天使が現れ「ベツレヘムに、救い主が生まれた。飼い葉おけの中に、布にくるんで寝かされている、それがしるし」と告げられました。そして、天の大軍も現れ、神を賛美しました。羊飼いたちはこの出来事に圧倒され、夢か幻を見ているのではないかと思いました。しかし、それらがかき消え、夜の闇がかれらを包みました。彼らは、今、天使の告げたことを確かめようと、ベツレヘムの町に行きました。そして、家畜小屋の中、飼い葉おけに布にくるまれて寝ている赤子を見つけました。彼らは喜びにあふれ、野原で起こった出来事をマリアに話しました。そして、ベツレヘムの町を、神を賛美しながら帰っていきました。ベツレヘムの町の人々は深夜の騒ぎに起こされ、何事が起ったのかと、通りに出てきました。すると、羊飼いたちが「救い主が生まれた。自分たちはその赤子を見てきた」と叫んでいたのです。「なんだ、羊飼いたちが騒いでいたのか。人騒がせなこと」と、また家の中に入ってしまいました。

 

羊飼いが、野原に野宿していたのは、彼らが町に住むことが許されていなかったからでした。羊の餌を求めて、どこにでも入ってしまう羊飼いは、法を守らない者とみなされ、また安息日も働き、律法を守らない者となっていました。それで、彼らは「地の民」と呼ばれ、さげすまれていました。ですから、彼らのいうことが町の人々からは信用されなかったのです。

 

しかし、なぜ、救い主誕生の知らせが、最も信頼されない人々に伝えられたのでしょう。大事な知らせ、みんなに知ってほしい知らせならば、それを伝えるにふさわしい人が選ばれるのではないでしょうか。
 知らせは、知るべき人に伝えられてこそ、生きます。ですから、人々から信用されないという仕打ちを受けていた羊飼いたちこそ、この知らせを聞くに最もふさわしかったということです。羊飼いたちへの伝言は、今も、人から人へと伝えられています。そして、私たちのところまで届きました。それは、きっと私たちもこの伝言を受けとるにふさわしいものだからです。

 

 

 

 

2017年12月17日

マタイ 2:1-12「鶴瓶の家族に乾杯!」

 

 NHK「鶴瓶の家族に乾杯」の20周年記念番組が先週放送されました。この番組はシナリオなしで撮影します。鶴瓶さんが押しかけることで、始まります。住まいや施設に上がり込み、会話がかわされます。迷惑だったこともあったはずです。しかし、鶴瓶さんが来てくれたことがきっかけとなって新しいことや良いことが起こったというのですから、面白いものです。

 

 今日の聖書の箇所は「三人の博士」として知られています。三人の博士は、東の方から新しい王、救い主が生まれたという知らせを携え、ユダヤにやって来ました。しかし、ユダヤの人々にとっては、この博士たちの訪れは、恐怖と混乱を与える、迷惑な押しかけだったのではないでしょうか。

 

 ヘロデ王は、この三人の博士を招いたわけではありません。勝手にやって来て、「新しい王はどこにお生まれになったのですか」と尋ねられ、恐怖を覚え、祭司長や律法学者を呼んだのでした。祭司長や律法学者も驚いたことでしょう。「聖書には、『ベツレヘムで生まれる』と書かれています」と返事したものの、信じていませんでした。
 ヘロデ王も信じてはいないものの、「もし会ったら、帰りに話を聞かせてくれ」と頼み、ひそかに博士たちを送り出したのでした。

 

 不思議なことに、途中で見えなくなった星がまた輝き出し、道案内してくれました。博士たちは幼な子イエスさまのところにたどり着きました。博士たちの突然の訪問に、マリアとヨセフは驚いたことでしょう。黄金、乳香、没薬の贈りものを携え、家に入ってきたのですから。ここでも、博士たちの訪問は一方的な押しかけでした。
 マリアとヨセフにとっては、困った、迷惑な訪問客だったのです。なぜなら、このあと、夢によってヨセフは家族を連れ、エジプトへ避難することになりました。それだけではなく、そのために、ベツレヘムにいた2歳以下の男の子はみな殺されてしまうことになったからです。不安と恐れにとりつかれたヘロデのしわざでした。マリアは心傷んだことでしょう。

 

 よかれとしたはずの博士たちの訪問が悲劇を起こすことになってしまいました。「鶴瓶の家族に乾杯」が20年も続いたのは、嬉しい結果を生んだからでした。2000年以上前の出来事である博士たちの訪問が、私たちがイエスさまに出会うために起こされたことであることに驚きを感じます。

 

 

 

2017年12月10日

ルカ 1:26-38「クリスマス プレゼント

  

 「クリスマスの奇跡は、信じる人に起きる」の言葉を信じ、少女ギデオンはホームレスのアールに祈りをこめて赤い手袋を贈ります。その赤い手袋がアールに立ちなおる力をあたえ、アールが白血病のギデオンの命を救うことになります。クリスマスプレゼントが奇跡を起こします。カレン・キングズベリー「赤い手袋の奇跡 ギデオンの贈りもの」、泣かされる物語です。

 

 ナザレは町というより、小さな村、300人程度しか住んでいない集落であったともいわれています。ある日、少女マリアのところに天使ガブリエルが現れ、「恐れることはない。あなたは身ごもって、男の子を産む」と告げたのです。マリアが信じられなかったのも当然です。ヨセフと婚約はしていたものの、まだ結婚はしていなかったのですから。
 信じられないマリアに、ガブリエルは「聖霊の力があなたをおおう、だから生まれる子は神の子です」と告げます。マリアにしてみれば、そんなことがどうして起こりましょうかと思ったはずです。
 その思いを打ちこわすように、ガブリエルの言葉が告げられます。「神にできないことはない」とです。この言葉によって、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と答えざるをえませんでした。

 

 贈りものを贈るときに、相手にふさわしいものをと考え、悩み、決めるのではないでしょうか。贈りものが受けとる人につりあうようにと、考える訳です。そう考えると、少女マリアが選ばれたことが不思議な気がしないでしょうか。それは、マリア自身も感じたことであるはずです。なぜ、わたしなのかとです。

 

 「赤い手袋の奇跡」で、贈りものによって、アールとギデオンの人生が変わったように、マリアも神からの贈りものであるイエスさまを身ごもることによって人生はまったく変えられたはずです。そして、そのことを受け入れる決断をしたということ、マリアはそれを自分の意志でしたのです。

 

 マリアという、どこにでもいそうな少女に起こった出来事でした。それは、私たちすべてにも起こりうることであるというしるしではないでしょうか。クリスマスの出来事を、人ごとにしないで、自分のこととして受け止め、受け入れるようにという神の勧めと愛が、ここに現れています。