2017年6月25日

マタイ 18:15-20 「わかってなかった!」

 

カトリック教会の本田哲郎神父は、41歳でフランシスコ会の管区長になり、全国視察に出ました。釜ヶ崎では、夜回りに加わりました。内心は怖かったのです。びくびくしながら、寝ていたひとりのホームレスに声をかけました、「毛布、いかがですか」と。すると、起きて「兄ちゃん、すまんな、おおきに」と答えてくれました。この出会いが本田神父を大きく変えてしまったといいます。

 

聖書の箇所は、忠告を聞かない人をどうすべきかを教えます。「忠告を聞かない人には、一人でダメならば二人か三人で、二人三人でもダメならば教会で行いなさい。それでもダメならば、異邦人や徴税人と見なしてもいい」、と。
 「あなたたちが関係を断つならば、それは天においても断たれることになる。そして、どんな願いことでも、二人が心を一つにして祈るならば叶えられる。さらに、二人、三人で祈っているところにはわたしもいます」、と。
 ということは、忠告を聞かない人は追い出してもいいということでしょうか。

 

この箇所をはさんで、前に「迷い出た羊」のたとえ、後ろに「仲間をゆるさない家来」のたとえがあります。どちらも、仲間はずれにされている人に対するイエスさまの思いが語られています。
 そうであれば、この箇所も、同じことが語られているのではないでしょうか。
 「つなぐ」「解く」とは人の関係のことをいっています。そして、関係とはお互いのことであるはずです、ですから、忠告している人だけではなく、忠告されている人も、この「あなたがた」には含まれているといえましょう。
 さらに、二人が一つになって祈るとは、この忠告されている人も含まれるということです。その二人が祈るとき、その祈りは叶えられるのです。
そして、二人三人が集まっているとは、その中に忠告されている人も一緒にいるということです。そのようなことがあるのかと思いますが、イエスさまが共にいるからこそ、そのようなことが起こされるのです。
 そのことが本田神父にも起こったのです。本田神父はホームレスの人を自分とは違う世界の人、異邦人と見なしていました。本田神父はわかってなかったのです。ホームレスの人から「おおきに」といわれたとき、目が開かれました。二人の間に、イエスさまがいてくださるということがわかったのです。

 

「一つになる」から「シンフォニー」という言葉が生まれました。違う楽器がそれぞれの音を出して、一つの曲となります。イエスさまは指揮者です。
 教会や家庭は、違う人たちがいても一つとなっていくことができるはずです。なぜなら、そこにイエスさまがいて、イエスさまの愛があふれているからです。

 
 

 

2017年6月18

ルカ 7:36-50 「そういうことか!」

 

 小咄で「風が吹けば桶屋(おけや)が儲(もう)かる」といいます。それは、風が吹くと砂が舞い、砂が目に入り、失明する。失明した人が三味線を買う。三味線には猫の皮が必要、猫が殺され、猫がいなくなり、ネズミが増え、ネズミが増えると桶をかじる。桶がかじられ、桶が売れ、桶屋が儲かる。「そういうことか!」ということです。

 

 イエスさまが、ファリサイ派のシモンの家に招かれ、食事をしているときの話です。イエスさまのうしろにひとりの女性が近寄り、泣きながら涙で足をぬらし、彼女は自分の髪でぬぐい、さらにイエスさまの足に接吻(せっぷん)し、香油を塗りました。シモンは、その女性がどのような女性か知っていましたので、無視しようとしました。
 すると、イエスさまはシモンにたとえを話します。「500デナリを借りた人と50デナリを借りた人、どちらも返すことができなかった。金貸しはどちらもゆるしてあげた。さあ、どちらの方がこの貸しを多く愛するだろうか」と。シモンは「多く帳消しにしてもらった方です」と答えます。
 すると、イエスさまはシモンに「この人を見なさい」といいます。そして、この女性がしたこととシモンがしていることが違うことを指摘します。そして、女性がしてくれた愛の大きさのゆえに、その大きな罪が赦されていることを告げます。
彼女はシモンがしているように、人々から冷たい目で非難されていたのです。その仕打ちに悔しさと辛さを味わっていたのです。イエスさまに出会ったとき、この方なら自分を分かってくれると思ったのです。ですから、そばに行けただけで、涙があふれ出てしまいました。イエスさまの大きな愛に包まれたのです。

 

 ですから、大きな愛の行いをしたから赦されたともとることができますし、赦しが先にあって、その赦しが大きかったことが、現わされた愛の大きさから分かるともとることができます。しかし、たとえの真意は隠されています。

 

 イエスさまはシモンを非難し、この女性をほめたのでしょうか。そうかもしてません。しかし、それ以上に、これから架かる十字架の死が、どれほど大きな愛を表しているかに気づいてほしかったのではないでしょうか。
 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)を、イエスさまは十字架で現わしてくださいました。
私たちへのイエスさまの愛の大きさが、このイエスさまの十字架の死に表されています。そのイエスさまの愛をしっかり受け止め、愛に生きましょう。

 

 

2017年6月11日

詩編 113 「わたしも一緒!

  

 映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」はアッシジのフランシスコが修道会を立てあげるまでを描いたものです。裕福な家庭で育った若者たちが、フランシスコと共に新しい生き方を始めます。お金を持たず、人からの施しに頼る生き方です。「清貧」こそ、フランシスコ会の特徴を表す言葉となります。

 

 詩編113編から118編は「エジプトのハレルヤ」といわれます。出エジプトがテーマとなっています。過ぎ越しの祭りに朗読されます。
113編は出エジプトの出来事の意味を語っています。エジプトで奴隷となっていたイスラエルの人々が解放されます。それは神が起こしたことだというのです。

 

 人生には思いがけないことが起こります。その出来事によって人も変わります。フランシスコも、初めから素晴らしい信仰の持ち主というわけではありません。どうしても、ハンセン病の人が怖く、避けていました。ある日、思いがけず、道で会ってしまいました。神の促しがあって、思わず彼に接吻してしまいます。そのとき、フランシスコはその恐れから解放され、まったく貧しくされた者へと変えられました。病気の人たちや貧しい人々に仕える働きを最も大切なこととするフランシスコ修道会がつくられていきます。
 
 神が至上の方であって、私たちとかけ離れたところにおられると4、5節でほめ歌います。その神が、6節で、「低く下って天と地をご覧になる」といいます。天でご覧になるとともに、地に下ってご覧になるのです。「地に下ってご覧になる」とは、「地の上で、様子を知るためにかがみこんでくださる」ということです。
 貧しさで、うなだれ、座りこんでしまっている人々に寄り添うようにして、共に座りこんで話しかけられるのです。先週お話した奥田知志牧師がホームレスの方に寄り添って語りかけている情景が思い浮かびます。
 そのような人々を、その塵と芥(あくた)・ごみの中から引き上げる。そして、自由な人々の中に戻す、奴隷から自由な人へ、本来の姿に返してくれるというのです。それが、出エジプトの出来事なのですと語ります。

 

 私たちもそれぞれが置かれている状況に縛られ、悲しく、辛く、悔しい思いをしてはいないでしょうか。しかし、神が、その状況から必ず引き上げ、解放してくださる。だから、その状況にくじけてしまわなくていい、そうではなく、希望を持ち続けなさい、わたしも一緒にいるからと、語っているのです。

 

 

2017年6月4日

マルコ 2:23-28 「あったのか、なかったのか!」

 

 「あったものをなかったことにはすることはできない」、前文科省事務次官前川喜平氏の証言が衝撃を与えています。しかし、見つからないから、なかったことにしようとしています。果たして、どちらが本当なのでしょうか。

 

 実は、聖書にも同じようなことがあるのです。
 福音書は四つあります。マルコ福音書が最も早く作られました。マルコ福音書を下敷きにマタイ福音書、ルカ福音書が作られたと考えられています。
 マルコに書かれているのに、マタイとルカにはすっかり削除されている箇所があります。今日のところの「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(27)が、そうです。

 

 どうして、このようなことが起こったのでしょう。都合の悪いことは書かなければいいわけです。マタイとルカにとっては書きたくなかったのです。彼らには教会員より教会が大事だったのです。確かに、教会を迫害の中で守っていかなければなりません。そのためには、教会のために教会員があることを強調したかったのでしょう。教会あっての教会員だということです。

 

 しかし、イエスさまは、神が創造の業を行ったときにさかのぼって、人々が休めるときとして安息日は与えられたといわれたのです。初めから、安息日は人のために作られていたということです。それにもかかわらず、人々は安息日を働いてはいけない日としてしまい、それを守らないものは神をないがしろにしているとしてしまったのです。

 

 イエスさまは、神の思いと愛を知らず、律法に縛られている人々を見て、憐れに思いました。そのことを知らせるために、あえて安息日に病気の人を癒すこともしました。そして、最も大切なことは律法を守ることではなく、律法の意図、願いを行うことだと教えたのです。

 

 ですから、安息日にかぎらず、すべてのものが人のために作られているということです。教会のために人があるのではなく、人のために教会があるのです。家族のために人があるのではなく、人のために家族があるのです。人が人として生きること、そのために、すべてのものは作られているということです。

 しかし、忘れてはならないことがあります。「人の子は安息日の主でもある」ということです。私たちはそのイエスさまの愛に支えられています。ですから、その愛に答えて、自分を生きることが願われています。